ブログ

日本の食と健康の歴史 その①

こんにちは。

12月も中旬になり、寒さが更に増しました。

体調には十分気を付けてお過ごし下さいね。

さて、もうすぐクリスマスにお正月と楽しいイベントが控えていますが、その時の食事も楽しみの1つですね。

今回は、食と健康の歴史を時代とともにご紹介させていただこうと思います。

少し長くなるテーマですので、①と②に分けてお伝えしていきます。

時代の流れとともに日本人の食生活は大きく変わり、

それにともない患う病気も変化をしてきました。

今や世界有数の長寿国となった日本の食生活と健康について

代表的な時代の歴史をお伝えしたいと思います。

<奈良時代・平安時代 710~1185年>

 675年(飛鳥時代)に出された「肉食禁止令」が続き、殺生を禁じる仏教の教えにより、
牛、馬、犬、猿、鶏の5つの指定された動物を食べることが禁じられていました。

肉食禁止令は、江戸時代末期までの約1200年間も続き、これにより日本人の食生活は大きく変化をしていきます。

貴族の食事と庶民の食事

 奈良時代の貴族の食事は、魚や野菜、乳製品など品数が多い豪華なものになり、ガラス器や銀器、陶器などの食器が使用され、玄米から胚芽と糠を取り除く技術が発達したことで、白米を食べることができるようになりました。

その一方で、庶民は高価な白米を食べることはできず、玄米と野菜を使った素朴な食事でした。

この時代には、野菜の栽培が盛んになり、庶民の食卓を支えていました。

栽培されていた野菜の多くは、もとは薬草として食べられていたものが多かったといわれています。

 平安時代になると貴族の食事はさらに豪華になっていき、せんべいや水あめ、ちまきなども食べられるようになりました。

肉食禁止令が依然として続いていましたが、庶民の食事では、鹿やウサギなどの指定されていなかった獣肉を食べることができました。

早死にだった貴族

 当時、貴族の中で、全身の倦怠感や食欲不振、足のむくみやしびれなどを引き起こし、最悪の場合死に至る病気が蔓延しました。

これは「脚気」といわれる病気で、ビタミンB₁の不足により引き起こされます。

玄米を精製するときに捨てられる糠や胚芽部にはビタミンB₁が豊富に含まれていましたが、白米を食べることができた貴族にだけ脚気が起こったのです。

 貴族の食事は、美しさと品数が重視されており、肉食禁止令を厳守したことで動物性タンパク質と脂質の摂取量は極端に少なく、全国各地の珍しい食材を使うために干物や塩漬けなどが多く、栄養バランスが取れていませんでした。

 また、一日の大半を屋内で過ごしていたため、運動不足になり、とても不健康だったのです。

貴族の中には、喉の渇きや視力が低下していく現在の糖尿病の症状を持つ者もいました。

一方、庶民は玄米を食べていたため、見た目の華やかさは劣るものの健康的な食事をしていたのです。

<鎌倉時代 1185~1333年>

 鎌倉時代には、唐(中国)に留学した僧たちが、医学の技術や人体の解剖図をはじめ、お茶や一日三食の文化などを持ち帰ってきました。

さらには、馬や牛、水車の利用により米の生産量は増加し、米をつくらない時期には麦が栽培される二毛作が始まりました。

僧が持ち帰ったお茶文化と一日三食の考え方

 お茶は、奈良時代に既に伝わっていたとされていますが、熱さましや眠気覚ましなどを目的に貴族や僧の限られた人の中で飲まれていました。

しかし、鎌倉時代に入り、東洋医学の五行説に基づき、「肝(かん)」「心(しん)」「脾(ひ)」「肺(はい)」「腎(じん)」の五臓に対応する「酸(さん)」「苦(く)」「甘(かん)」「辛(しん)」「鹹(かん)(塩辛さ)」の五味の食物を適切に摂取することが大切だという教えを持ち帰ってきた僧が、日本人は苦いものをあまり食べないため、苦いお茶を飲むことで「心」を補うと考えたのです。

当時のお茶は粒子の粗い抹茶のようなもので、やがて茶臼で粒子の細かい抹茶をつくることができるようになると「茶の湯」が流行しました。

なお、庶民が茶葉を煮出して番茶に近いものを飲むようになったのは、江戸時代になってからです。

 また、一日三食の文化も伝わりました。
古代の日本では、朝起きてから狩りに出かけ午前10時ごろに食事を取るという一日一食のスタイルでしたが、奈良や平安時代になると朝食は正午ごろ、夕食は4時ごろの一日二食のスタイルになりました。

そして、鎌倉時代になると、大陸での一日三食の伝統を持ち帰った僧たちを筆頭に、次第に公家にも伝わっていきました。
この習慣が庶民に定着するのは、お茶と同様に江戸時代になってからですが、現代の食生活の基盤がこの時代にははじまっていたのです。

おにぎりと調味料

 僧たちが一日三食食べているころ、武士たちは一日二食でした。
二食ではお腹が空くため、その合間に軽食を取っており、重宝したのが握り飯でした。
1221年の承久の乱では、梅干しの入った握り飯が配られていたという記述が残っており、それ以降、握り飯に梅干しという日本人の定番として広まっていきました。
梅干しのほかに、にぼしやかつお、味噌なども具材として使われていました。

 日本人にとって重要な調味料の「味噌」や「醤油」ができたのもこの時代です。
味噌と醤油は大豆を発酵させて塩で味付けしてしてできた「醤(ひしお)」から生まれました。
醤は奈良時代には存在し、米、肉、野菜などからも醤はつくられ、ご飯のおかずとして使われていました。
その後、武士たちの間で、大豆を発酵した醤を戦陣食として用いるようになり、これを味噌と呼ぶようになりました。

そして、室町時代になると味噌汁として飲まれるようになっていきます。
醤油は、味噌を作る課程で容器の底にたまった液を「たまり」として使うようになり、後の安土桃山時代に製法が確立されていきました。

ただし、高級な調味料だったため、江戸時代に入って大量に生産するようになってから普及していきました。

<室町時代 1336~1573年>

 室町時代には、主食、1種類の汁物、3種類のおかずという、和食の基礎「一汁三菜」が生まれました。主食がご飯という考え方や出汁の利用がはじまったほか、貿易が活発になり砂糖が手に入りやすくなったことで羊羹などの和菓子を楽しむようになったともいわれています。

和食の基礎

 和食は、茹でる、煮る、出汁を取るなどの素材のうまみを引き出す調理方法を基本として発達しました。
食材を炒めたり、焼いたりする中華料理や西洋料理と異なる調理方法が発達したのは、日本の水が「軟水」であったからです。
水に含まれるカルシウムとマグネシウムの濃度によって、軟水、硬水と分けられますが、日本の多くの地域は軟水で、まろやかな口当たりとさっぱりとした風味があり、素材を活かした繊細な味付けを魅力とする和食には最適だったのです。

軟水と硬水の違い

<軟水>
●水の流れが速い
●岩石と触れる時間が短い
●地中にミネラルが少ない
※急な山が多い地形、日本など

<硬水>
●水の流れが緩やか
●岩石と触れる時間が長い
●地中にミネラルが多い
※なだらかな地形、フランスなど

食事格差の減少へ

 平安時代から室町時代にかけて、地震や台風などの自然災害の発生により大飢饉が起き餓死する人が増えたり、疫病の流行により多くの人が亡くなりました。武士や庶民は、しっかり食べることで健康になろうという考えを持つようになります。

 この時代は、米を保有するものが富と権力を握っていたため、武士の多くは戦いがおさまると農民として耕作をしていましたが、体力を消耗する仕事であったため、力をつけるために健康的な食事をしっかりと取る必要がありました。

仏教の教えで殺生することは好まれていなかったものの、薬として猪、熊、狸などを食べていたといわれています。

また、庶民の生活水準が上がり、貴族との食事格差は少なくなっていき、貴族が食べていた調理方法の焼き物、煮物、蒸し物、汁物などが普及していき、より一層健康的な食生活を目指すようになりました。

近世の食と健康
<安土桃山時代 1573~1603年>

 安土桃山時代は、織田信長や豊臣秀吉が権力を握った時代で、南蛮貿易が盛んになり、鉄砲や火薬などの軍需品のほかに、かぼちゃや玉ねぎ、さつまいも、じゃがいも、トマト、ほうれん草などのこれまでに見たことのない食材が次々と入ってきた時代でした。

戦に勝つためには健康が鍵

 大陸や南蛮(現在の中国やポルトガル)からさまざまな食品が日本に伝わり、人々はその中で何をどう食べるべきかを考えるようになりました。

武将たちは、体にいいものを食べるように心掛け、自身の健康状態が戦の勝ち負けに影響すると同時に一族の存続にかかわると考えていました。

 特に、食生活を含む生活習慣に細心の注意を払っていたのが若き日の徳川家康です。
家康は、当時最先端の医学書を読み込み、医者を招いて議論を交わすなど、健康について深く学んでいました。
朝鮮から入ってきた「和剤局方(わざいきょくほう)」という薬の処方集を常に持ち歩き、自身で薬の調合まで行っていたのです。

 家康の健康法の1つに粗食があります。
家康の側近であった僧の天海が、長生きの秘訣として粗食をすすめていました。

粗食は、粗末な食事のことではなく飾らない食事の意味で、地元で手に入れた新鮮な旬の食材を使用し、加工せずに食べるということです。
地元で手に入れた旬の食材は、収穫からすぐに食卓へ上がるため塩蔵などの加工の必要もなく、ビタミン、ミネラルなどの栄養素が豊富に含まれているため、健康を重んじていた家康はこの教えをしっかり守っていました。

 まず主食は、麦食を好み麦の粒を丸ごと使っていたため、よく噛むことが習慣にありました。よく噛むことは、胃腸の機能を高め、副交感神経を刺激してリラックスすることにつながり、満腹中枢に働きかける作用もあるため、食べ過ぎを抑えることができます。

 タンパク源は、鷹狩りを生涯好み、鶴やキジ、鴨などを捕まえて食膳を飾りました。
これらの肉は、脂肪が少なくタンパク質が豊富なため、筋肉や血管を丈夫にするのに役立ちます。

魚は、イワシを好み、丸干しや煮つけをよく食べていました。イワシには、動脈硬化の進行を抑えるEPA(エイコサペンタエン酸)DHA(ドコサヘキサエン酸)や骨を強くするカルシウムやビタミンDが豊富に含まれ、一食たりともおろそかにしない姿がみられました。


以上が、日本の食と健康の歴史、前半パートになります。

食文化の歴史ということで長くなるため、半分に分けさせて頂きますが、
いろいろな食事スタイルから、他国の影響も受けつつ、日本の文化の一日三食・一汁三菜、和食に近づいてきましたね。

7-NaNa-鍼灸院川西院でも、規則正しい生活をおくることや和食・新鮮な魚や野菜の栄養をとることはダイエットにも健康にも良いためおすすめしております。

7-NaNa-鍼灸院川西院でダイエットスタートされる場合はそういった仕組みをすべて解説をさせていただきます。
いつでもお問い合せくださいね。

それでは、ここから、日本独自の「和食」がどのように進化を遂げていくのか。

その②もお楽しみに。